「ひきこもらされて」いるわたしたち
コロナ禍も2年目に突入、いよいよ生きていく上でも疲労がたまっている頃だと思います。 僕個人はそういえば昔から変わってないな、年取ってるだけじゃないかとも感じているのですが。
今日は発達障害者とも関連がある「ひきこもり」の話です。
斎藤環氏の矛盾
ひきこもりというと、有名な専門家のひとりに斎藤環さんがおります。
彼は「社会的ひきこもり」の定義を提唱し、「ひきこもりはその状態であって病気ではない」としています。
しかしながら当事者の大半は精神疾患・障害を持っているとのデータもありますし、適切な支援法として「精神科に通う・入院する」ことを選択されることも普通にあります。
あるいはNPO法人なんかがひきこもりの方の家へ訪問して支援するなんてこともありますよね。
働けないと貧困問題も生じますから、ひきこもり対策の本には「障害年金の検討を」と書かれることもあります。
しかし……障害者でありなおかつ審査を通らなければ、障害年金はもらえないのです。
ひきこもり状態にある人は、(全員ではないにしろ多くが)本来ならば「障害者」であるはずです。
社会で生活する上で、どうしようもない困りごとを抱えているわけだから。
代表的な困りごとは「親が死んだら何もできない」辺りでしょうか。
それこそまさに、「本当は外に出たいけど出られない」「本当はひとりぼっちになりたくない」なんてのもあるでしょう。
なのに、ひきこもりは病気や障害じゃないから、本人は困っていないからほったらかしていいよね、となるのでしょうか。
まずならないはずです。
外から支援を受けるためには、「障害」という枠が必要になるはずなのです。
「障害は個性」の言葉が秘める暴力性は、「ひきこもり」の世界にもあるのでは。
「社会的ひきこもり」についての提唱は当時から画期的ではあったでしょうが、最初から矛盾していたとも思うのです。
「ひきこもりは個性」か?
ひきこもっている彼らは、僕らは、「社会でいうところの障害者ではないから」という理由で支援を後回しにされています。
しかし家族に暴力を振るう状態が、「死にたい」とつぶやくひとりぼっちの状態が、果たして「障害でなく個性」なのか僕は疑わしいです。
いつまで、制度のはざまに追いやるのでしょう。
別に、障害者だからといってその人の人間性が劣っているわけでもなんでもありません。
彼らは障害を持つ当事者だと、普通に言えばいいはずです。
生きる上で「大人は働かなければいけない、正しくない」わけでもないし、働かないならそれはそれで生き方があってもいいのです。
でもその「それなりの生き方」を安心して、誰の力も借りずに謳歌できているひきこもり当事者なんてどれだけいるのでしょうか?
当事者の家族はもちろんですが、その苦しみを一番味わっているのはひきこもらざるを得ない状況にある本人です。
だから本当は「障害者(生活に支障が出るほどの困りごとがある人)」の範囲をもっと広めないとまずいのではないかと考えます。
資料:ここでいうところの「障害」
よく「個人モデル」「社会モデル」での障害とは、と説明されます。
今回は「社会モデル」視点ですね。
ひきこもること、働かないことで様々な種類の貧困(つながりの貧困、金銭的な意味での貧困等)が生じてしまう社会的な仕組みは「障害」だ、ということです。