そりゃ、もっといい部屋に住みたいとか、無印良品のカレーを買って食べたいとか、そういう望みはあります。
でもそういうのは、たとえちょっとしたことでも叶わないのだろうな、と考えた方がより現実味を感じるものです。
本当に生活費をまかなえないので余計なモノが買えない、一旦買ったモノがなかなか捨てられない、というのはミニマリストとか「小さく整った暮らし」とは違います。
買える食器だって100円ショップの「マリメッコ風」「伝統の焼き物風」でしかないか、良くてヤマザキパンのおまけをもらえるかどうかといった具合です。
食べ物、調味料だってそうです。
「みりん風」「ごま油風」の、余計な混ざり物のある調味料でないとなかなか買えません。
もうこれだけで土井善晴さん的な「慎ましくも美しい」食事からは程遠くなります。
また、「ときめき」なんていう衝動的な感情をベースにした「こんまりメゾット」なんてやったら悲惨です。
あれは心身ともに健康な人だから「モノのいる、いらない」が判断できるのであって、不健康ならモノの好き嫌いを抜きにした「使わないものは捨てる」をやらないと、6畳の部屋に「今生きる分」を収めることができません。
要するにこれはもう何本も記事を書いているのだけど、「貧困(あるいは貧困一歩手前)からは美しい、整った生活は成立しない」のです。
前に住んでた部屋、カラーボックスどころかニトリのNインボックスすら買うのを渋っていました。
この頃足りなかった夏物の洋服が買いたかったので、代わりに他の日用品費を削っていたのです。
何分も探し回るほどモノが散乱してたわけでもなかったのですが、この当時は「なんだか不便な気がする」気分をよく味わっていた気がします。
それでも、せめてもと思って買って置いていたのが、実家にいた時から使ってたエアロバイクと、引っ越す時に買ってきた無印良品の小さいビーズクッションです。
特に、無印のクッションにはずっと憧れがありました。
でも大きいサイズだと空間を圧迫するのと、意外と使いづらいとの話も聞いていたので小さいサイズにしていました。
このクッションには気づくとよく座っています。
色んな人に座ってもらったこともあります。
最近座ってくれたのは訪問看護の看護師です。
1万円ほどで高かったけど、これは買ってきて良かったと思っています。
せめてこれは、これだけは持っておきたかったという「美しい」モノだったのかもしれません。