あさのよみもの

Chromebookネタは新ブログにて。元々は「自閉症スペクトラムと性別違和」「LGBTとフェミニズム」の話をするとこでした

とある障害者がとても嫌いだということ

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 不穏なタイトルで恐縮ですが、今日は姉の話です。

 

 

 

我慢の日々

 姉の話をすると言いながら、僕は幼少時の記憶がほとんどありません。

 だから母や他の人から聞いた話から「へーそういうことあったんだぁ」などとよく思います。
 記憶はないんだけれど、何故か「人のために我慢する」ことが多いのです。

 それはきっと、手のかかる自閉症児だった姉の影響がとても大きかったのでしょう。
 いつから姉がああなったのかは、それこそ覚えていないとしか言いようがないのですが。

 テレビとCDラジカセを同時につけて、ひとりでブツブツ何かつぶやいてたり、突然飛び跳ねたりして、それが朝から夜中まで続くのです。
 声があまりに大きくて耳をつんざく。
 彼女が大人になってからはマシになりましたが、外に遊びに行くと常に粗相のことがつきまとう。
 感情がコントロールできなくなると、泣き叫んで人の頭をひっぱたく。
 いちいち動作がのろい。
 いちいち、喋る言葉が途中で詰まる。
 同じことを何回も何回も繰り返す。
 ……そんな姉の「家族」ではなく「支援者」であるのだという人生が、幼い僕にはとても辛いものでした。

 

 僕は姉が嫌いです。
 その気持ちは、自分自身が障害者になっても変わりません。

 

わかってもらえないだろうけど

 有名な障害当事者はよく「理解と受け入れを!」と言ってますけど、

 

 

 そういう人たちに対して僕はひどい言葉を返しているのだろうか、障害者が障害者を嫌うなんて悪いことなのだろうか、と思わなくもありません。
 でも「相手は障害者なんだから嫌いになるのは差別だ」「家族なのに愛してやれないなんて」と他人に言われたら、僕はきっと悲しむし怒ります。
 そんな空気の読み方は望んじゃいないよ、と。

 「姉が嫌い」と「障害者が嫌い」はイコールではないもの。

 

 障害者を支援することは決して、美しい感情だけでやっていけるものじゃないのです。
 そんな「美しさ」ばかり求めるのはむしろ、差別的ですらあると感じるのです。

 愛することと支えることはまた別の軸の話です。
 そして、愛していようが憎かろうが、永遠に支援を続けることはできない。


 昨年、母が病気で死んでたかもしれないという場面に遭遇し、そのことを思い出すと「姉には、親が死んだ後もあの施設で幸せに暮らしてて欲しいな」くらいのことは願うのです。
 実際に死んでしまったら、彼女の洋服やら何やらを買ってやって施設に運ぶのは僕の仕事になるかもしれないなぁとは思うのです。
 そこに好き嫌いがどうこうってのは関係ないです、「仕事」だから。

 

 「家族だから、支援者として働け」。
 これに誇りを持つ人もいるだろうけど、自分はたまたま辛いと思ってるだけです。
 でもきっとこの気持ちは、同じような経験した人でもないと分からないんだろうな。