※この記事は2019年6月のnoteの再掲です※
僕は元々の障害のせいか、自分の身体の性別が認識できずにいました。
年相応の恥じらいもほぼありませんでしたから、何故小学校中学年になると男女で着替えが分けられるのか分かりませんでした。
周囲から「あなたは女の子なんだから」と言われることは不思議です。
その言葉に納得できるようにするため、「女らしさ」を完璧にこなさなければならないと思っていました。
とりわけ幼少時、その「女らしさ」の最もたるものは「スカートを履く」だと思っていたものです。
ところがある冬の日、僕は保育所でズボンを渡されました。
「女の子なのにズボンってことは、自分が女の子だっていうのは嘘だったのか!?」とショックを受けて大泣きしたことがあります。
幼い娘さんでもこんなことでパニックを起こすことは、普通しないはずです。
これもおそらく病的なまでのこだわりです。
厳格さを求めますから、そのこだわりというのは自らだけでなく、他者にも向きます。
「私は女」を保証するためには、女らしくならなきゃいけない。
これはまさに女性たちを傷つける考えではありませんか?
全員そうだというわけではありませんが、発達障害持ちだとこういう言動を素でやりかねないのです。
たとえば。
女とは女らしくならなきゃいけない。
ブスは女じゃない。
デブは女じゃない。
可愛いものが好きでなければ女じゃない。
スカート履かなきゃ女じゃない。
メイクしなきゃ女じゃない。
男に恋をしなきゃ女じゃない。
男が喜ぶ仕草ができなきゃ女じゃない。
実際の女性というのは違いますよね?
しかし僕は、「女らしい女じゃないのなら自分は男なのだろう」と思い込みました。
しかし僕は本物の男性にはなれませんでした。
いざ男性の身体が欲しいのかと考えた時、それはどうも違うと思いました。
メンズ服を着ても、心身ともにしっくりくるわけではありませんでした。
男らしさが足りない、なのに僕は女じゃない。
男から愛されない、承認されない。
それはもう、自分の世界がほとんど終わったようなものです。
その身体は相変わらず、駄目な、ゴミクズのような女ではあるだろうが、世の中で認められる「女」の枠から外れる。
だったらもう、ゴミクズになるくらいなら女は辞めてしまおう。
「自分は男より劣っていて、さらには女よりも劣っているのだ」と、自分自身に失望したのです。
それから僕の性自認は消えました。
消す必要などないはずなのに。
(とは思いますが、自分の体と心の間に何か挟まってるみたいな感覚は残るので結局無性自認になるのでしょう)
女らしくない……あそこで求められる「女」とは所詮「男性にとって都合のいいだけの」ということを大人になってから知りました。
それでも僕は未だに呪われています。
こんな形のXジェンダーだとか、元FtMなんていうのはとても悲しいことなので、こんな経験をする人はなるべくいなくなって欲しいものです。